N16 最終回  この物語はフィクションで 学校名 個人名 団体名は全て架空のものです。
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 電話がかかってきた。大阪の木ノ内小の先生からだ。
「はい古富ですが。・・・」
「2月25日の土曜日に舞洲アリーナで実業団チームの試合があって その前座試合に呼ばれているんだけど先生のとこ参加できない?」
「すいません。実はその日は奈良の大会に出るので無理なんです。」
「あ~。なんか近畿がなくなったから出る予定だったチームが呼ばれているとか・・」
「はい、先生とこ 呼ばれてません?」
「あっイヤ・・ 先に実業団のやつの話があったから・・・」

「あっ そうそう・・なんかその奈良の試合。要綱みたいのある?あったらファックスで送ってほしいんだけど。」
「いいですよ。来てたので。」
何も考えず、ファックスを送った。

・・・・・・・
それがKBCまで回ったんだと思った。

 (あの時、ファックスを送らなければ、イヤ「近畿大会」の文字を消して送るなどの配慮さえあれば・・・・奈良大会は順調におこなわれていたのではないか。)
(イヤ、私の送ったのが回ったのかどうかも分からないし、送っていなくても中止になっていたかも)
心理的合理化を図ってみるが駄目だ。
後悔しても仕方がないが どうしても悔やまれる。

 練習を早く終わって 子どもたちに奈良大会の中止のことを伝えるのは 辛かった。しかし、その日のうちに伝えなくては家の人も色々と準備している。
子どもたちを立たせて自分は マットの上に座って、奈良大会もなくなったことを告げた。今回は、子どもたちが泣いているのがはっきりわかった。無理もない。兵庫県での近畿大会がなくなったショックから奈良の大会に行けることになったと喜ばしておいて土壇場になってのキャンセルだ。

自分のファックスがそういうことになった原因だとは考えたくなかった。
子どもに言えるはずもない。
このことは自分の胸に一生しまっておこうと考えた。

「子どもの君たちには よくわからないかもわからないけど大きな地震があって大きな被害もあって、まだまだ避難生活も大変な方が多い中で兵庫県の大会ができなくなったからじゃ奈良でやるというのは 『不謹慎』という判断でなくなったんだ。」

『不謹慎』という意味が分かっている子もわからない子もただただ泣いている。「大人の事情」なんかわかるわけもない。試合後の涙とは違う何ともやり切れない涙だ。時間が再び止まったように感じた。
 
 キャプテンの顔を見た。今までどんな状況でも泣いたことがない平島美香が泣いていた。子どもたちもそれをみてびっくりすると同時に声をあげて泣き出した。

 まともに谷村絵里の顔を見られなかった。
 けがも治って次こそ試合で存分に力を出したかっただろうに・・・

 「悪かった。・・・土壇場になって なくなってしまって・・・。」

 そういうのが、精一杯だった。
その日、保護者にも何人か連絡して伝えてもらうことにした。
保護者は当然大人だが「大人の事情」には理解を示さず不満を持つ人もいた。
これも当然だ。

言えるのは
「主催者側の奈良の判断なのでどうしようもできません。」
それだけだった。

 ていねいなお詫びの手紙が来たが、それは子どもたちや不満を持つ親にはただの紙切れだった。

 唯一の救いは、そういうニュースは各関係機関にすぐに情報がいって昨年、全国大会に豊中からいった服部南小学校の方から 
「緑北小学校でやってくれるならいくつかチームを集められるよ。」
と言ってくれた。
「ありがたいです。お願いします。日にちは?・・・。」

 3月4日(土)急きょ 一日のミニ大会を緑北小学校で行うことになった。「さわやか杯」だ。服部南小の監督は民間の方、会社の社長さんでポケットマネーからトロフィーまで用意してくださったのだ。
 さわやか杯は 女子8チーム。千里中央小や上津島西小、服部南小を始め強豪チームを集め遠くは滋賀県からもチームがやってきた。
 わが緑北小は、やはりトロフィーは取れなかったが大阪大会の3位決定戦で負けた相手に勝つことができて一矢報(いっしむく)いることができた。何より子どもたちに近畿大会や奈良大会に行けなかった分の卒業ぎりぎりまで対外試合の経験をさせてあげられたのがよかった。
 滋賀県のチームと対戦が終わったとき、谷村絵里が試合には負けたが笑顔で
「ユニフォームの「OSAKA」 役に立ったね。」
とあどけない顔で言ってくれたが、剛の胸中は複雑だった。

 今では、学校行事の近隣学校とのバスケットボール大会もなくなったのでフレッシュ大会やら卒業記念大会を関係機関で運営してくださっている。

 その次の週には「お泊り」の代わりに保護者の方、特に平島美香のお父さんが中心となって日帰りだが『バスケ親睦会』としてマイクロバスをチャーターし兵庫県の「いこいの村」で親子バスケをしたりランチを楽しんだりして 緑北小学校ミニバスチーム最後の卒業記念セレモニーをした。
 その最後にみんな会議室みたいなところに集まり、保護者そして子どもたち一人一人が一年間を振り返った。保護者の不安も聞けたし子どもたちのバスケのことだけでなく新しい友だちができて良かったと言うのを聞くこともできた。
(当時の6年生は4クラスあったので同じ学年の女子でも知らない友だちもいたのだ。)

中崎真由子は、こう言った。
「5年生まで、バドミントンをやっていたけど全然うまくなれなくて、試合にもあまり出してもらえず、練習もそれほどなかったので時間を持て余していました。面白くなくて正直ちょっとぐれかけていました。でも6年生になってバスケットに悩んだけど入って、練習を頑張ったらうまくなって試合にも出られて勝つこともできたし、いい友だちとも出会えてすごく楽しい1年でした。」

最後にキャプテン平島美香のお父さんが
「何もしなくても6年生の一年は過ぎたと思う。でも こうやってしんどかったかもしれないけど新しい友だちもできて 試合に勝つこともできて素晴らしい1年間やったと思う。そんな経験をさせてくれた先生に感謝したいと思います。」
そう言ってくださった。
「こちらこそいろいろとご協力いただいてありがとうございました。」
言いたいことは沢山あったが こうとしか言えなかった。

奇跡の一年がぐるぐると剛の頭の中で蘇った。

 24年ぶりの千里中央小学校の体育館でいろんな話を真由子としたが、
最後に真由子は  
「先生、私何回か引っ越ししたけど、小学校の時のユニフォームずっと持ってて、それを見るたび特に背中の「OSAKA」の文字を見るたびにあの頃のことを思い出すんです。
 あの時は、みんなでお泊りの試合に行けなくてすごく悲しかったけど、そのおかげでこうやってバスケットボールにずっと関われてきている。だから結局は良かったんだと思いますよ。谷村絵里もこの前会ったとき『府の大会はケガで出られなかったけどすごく充実してて良かった。』って言ってましたよ。」
「あっ 私、もういかなきゃ。先生 またね。絵里もいつか『会いたい』っていってたからミニ同窓会計画しますね。」

それを聞いた瞬間、その言霊(ことだま)が耳から瞬時に体を駆け巡り身を熱くした。
(何という 前向きな考え方なんだ。)そして、その言葉に救われた気がした。
そう言って彼女は立ち去った。
剛は彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見ていた。
 
 卒業後。真由子も含めて何人か手紙をくれた。 どの子の手紙も「充実した一年でした。近畿大会や奈良大会に行けなかったのは本当に残念でしたが・・・」ということが書いてあり、そのたびにFAXで要綱を送ってしまったことを後悔したが手紙の返事には決してそのことは書かなかった。いや書けなかった。ずっと心に引っかかっていた。
 剛もまたあの『幻の大会』があったからこそ こうやってミニバスケットにかかわってきたのかもしれない。

真由子が立ち去って次の練習試合が始まった。古富剛は自分の学校、千里中央小の女子チームを 来年は人数が足りなくて試合には出られないかもしれない その女子チームを声が涸れるほど応援し続けた。



この物語を 1994年度の18人のミニバスメンバーとその保護者の方々。
 1993年度のミニバスメンバーとその保護者の方々。
そして今はなき その1993年度のキャプテンのお父様に 捧げます。

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