これを考えなければ 日本の GIGA School構想も 衰退する
「デジタル教育で日本人がバカになる」という見出しがある週刊誌に2024年11月~12月に連載されました。私は。GIGA School構想にも、プログラミング教育にも大賛成なのです。ただ、デジタルの「光と影」つまり良い部分と悪い部分の中で「影の」部分をよく考えないとデジタル教育の害が大きくなり、子どもたちがバカになり、国が衰退していくことになります。実際、デジタル教育を推進していた国や地域で弊害が大きくなりアナログ回帰が起こってきているのは事実ですし日本もそうなる可能性はないとは言えません。ただデジタルがダメだというのではありません。これからの世の中、教育も含めてデジタルなしに進めていくことはできません。しかしその使い方を十分に検討もせずに闇雲に推し進めていることには危機感を持たざるを得ません。高度なデジタル技術も一つの道具、ツールにすぎません。その使い方をあやまると不幸な出来事が起こるというのは人類の歴史が証明しています。ではどんな所に、その罠がひそんでいるのでしょうか?
懸念1 いわゆる「ブーム」による強制
2024年を席巻したAIブーム。これは単なる流行ではなく産業革命に続くIT革命の集大成ともいえるものです。しかし、今まで百年以上続いてきた教育体制をあっさり捨て去り、「デジタルを使いなさい。」とだけ強制していくだけでは、ただでさえ教師不足で崩壊しそうな教育そのものが危うくなりかねません。デジタルで便利になるはずのものが教職員の負担を増やすようなやり方では必ずその反動が来るのです。トップダウンの方式でシステムは入れられてもトップダウンで教育の中身やその方法を規制するようなやり方は大変危険です。ましてたった数年でその成果を云々することの危険性を十分考えなくてはなりません。推進派の行政や教職員の方の多くは実際のICTを活用した教育が地域や、学校、教員によって十分活用されていないことを嘆いています。しかし、私は推進派ですが、このように一気に進んでいないことはむしろ悪い方に行き過ぎることにブレーキをかけてくれていると思っています。インターネットにしてもAIにしても人類が歩んできた歴史の中でまた50年たらずしか使っていないのです。今、当たり前に思っていることが後から考えると実は、間違っていたということはよくあることです。ブームに惑わされないでしっかり考えて行動する必要があります。
懸念2 便利さの陰に潜む落とし穴
AIドリルなるものが開発され、「個別最適な学び」なるものがグローズアップされるようになってきています。今まで、人間の力だけではできなかったことができるようになり、これから益々、便利なものが求められまたそれがビジネスモデルとなって教育産業を支えていくでしょう。しかし、教育は商品を生産するようなものではなく「人間を育成」するものなので、いわゆる市場主義にはなじまないことが多くあります。複数の先生たちが目の前の子どもたちに寄り添い授業を創っていくことが教育の本質です。人気のあるアプリに子どもたちを「当てはめて」いくことではありません。先生たちはデジタルのプロではありません。そしてアプリを開発する専門家は教育のプロではないのです。だからこそ両社の話し合いが大事なのですが、教育と市場主義は相容れることがなかなかできず。デジタル至上主義に陥り、今までの一斉授業に代表されるような教育は古くてダメだと切り捨てることの危うさを考えなければなりません。便利なものやことにはみんなの注目が集まり、広まっていきます。機械的な事務処理、アンケートの統計処理は自動化され便利になっていく必要性を強く感じますが。教育の世界で便利なことはそんなに必要なのでしょうか?テストなどの成績や情報収集能力、プレゼン能力など表面上の優秀さだけが重要となり人類の平和と反映を深く考えないで、自分の目先の利益のみ考える人間が増えていくことを皆さんは望んでいますか?
懸念3 アプリによる教育の分断
先生たちは長らく地道な授業研究を続け目の前の子どもたちにはどんな授業が良いのかを探ってきました。しかし、「ICT活用が行き過ぎる」とアプリがそれに取って代わって先生たちはアプリを使いこなすのに精一杯。しかし、そのアプリは地域によってバラバラ。使い方もバラバラ。それぞれのアプリは地域によって決まっている。
今まで教科書が違っても全国の教職員が共に研究できていたいた。それが次第にできなくなってきている現状があります。主に使っているアプリが違うと話がわからない、合わない。
つまり先生たちの話の中心が子どもたちの知識や思考の話ではなくアプリの話に変わってきてしまうのです。ICT関係の書籍にはやたらアプリ名や会社名がが書名の中に入りシェアの多いアプリばかりの書籍になっている。そのアプリを使っていない自治体の人は中身を読んでもほとんど分からない。なぜならそのアプリの使い方やそれを使うことを前提とした書き方になっているからです。
ICTもアプリも所詮道具に過ぎません。でも、その道具がなければもはや教育や生活は成り立ちません。しかし、その道具を使って何を作るかが大事なのです。どんな授業を創っていくかが大事なのです。このアプリさえ使えば素晴らしい教育ができる。そんなものは教育のごく表面的なものにすぎません。アプリにとらわれることなく先生たちが話し合えることが徐々に重要になっていくでしょう。
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